CATEGORIES

ブランド
ボディタイプ
カラー

BOOKMARKS

japanese dining 簾 ジャパニーズ ダイニング レン

japanese dining 簾 ジャパニーズ ダイニング レンのクーポン印刷はこちら。japanese dining 簾 ジャパニーズ ダイニング レンの店内状況や概観から雰囲気をチェックできます。

海鮮家 葱ぼうず

海鮮家 葱ぼうずのクーポンはここからどうぞ。コースメニューなども写真で見られます。

甘太郎 新宿通り店

甘太郎 新宿通り店の料理、お得なコースメニューはこちらから。

宗家 源吉兆庵 松濤

宗家 源吉兆庵 松濤のお得なクーポンはこちらから。お店への地図も掲載しています。

TUFF GONZO GONZO タフ ゴンゾー

TUFF GONZO GONZO タフ ゴンゾーのお得なクーポン。TUFF GONZO GONZO タフ ゴンゾーの写真が満載で店内の雰囲気がわかります。

葆の里 神保町店

葆の里 神保町店に行くなら。事前にクーポンをゲットしてお得に楽しもう。

PRONTO プロント 新宿センタービル店

PRONTO プロント 新宿センタービル店のお店情報。料理メニューやドリンク、コース料理が掲載されてます。

京町家すいしん 西院店

京町家すいしん 西院店への地図、クーポン情報ならこちら。

銀鍋

銀鍋に行く前にクーポンをゲット。ここから印刷できます。

ホルモン屋 牛豚舌 駕町店

ホルモン屋 牛豚舌 駕町店の料理情報を事前にチェック。お得なクーポンもゲットできます。

LINK

ポルシェ スマートに関する中古車

一致するデータはありませんでした。

Powered by カーセンサーnet Webサービス

ポルシェ スマートに関する旅行記

タイ Hyatt Regency Huahin Premie...

2010/09/03 12:09:04

バンコクから南へ3時間半ほどにあるリゾート地Huahinへ行ってきました。

有名なパタヤとは丁度位置的に対岸になります。

パタヤとは全く違い静かな大人のリゾートといった感じです。

Hyattは街の中心から少し南に離れた海辺に建っています。

非常に静かな海の前でホテルは上品な雰囲気です。

オープンエアーのフロントでは女性マネージャーの丁寧なお迎えがありました。

タイ人にしてはスマートでそつのないサービスをしてくれました。

部屋は改装されたばかりのプレミアスイートで大きなリビングが特徴的です。

部屋の割にテレビが小さく残念。

また、浴室と寝室は開放できる構造になっていました。

海を見渡せるテラスでの朝食はとても素敵な時間でした。

併設されている海辺のレストランもなかなか良いお味。

只、お値段は結構しますね。

また、全体的にサービスは洗練されておりタイのレベルではかなり高いと思います。

尚、スタッフの中には平均点以下の対応をする方もいましたので何かあればマネージャーに直接お話しすることをお勧めいたします。

バンコクのエラワンHyattからシャトル送迎がありこれを利用すればきれいな車で一人僅か500Bで往復できます。

ホアヒン市内へは少し歩いたところから流しのソウテウが沢山ありますので不便しないと思います。

大人のリゾートでゆっくりしたい方にお勧めします。

チューリッヒ上陸14時間の感動...

2010/08/30 05:08:59

乗り継ぎだけのつもりだったのに、出会ってしまいました。
チューリッヒ初上陸。たった14時間の出会いでしたが、心に残る街となりました。
歴史的地区の優美な建造物、チューリッヒ湖~リマート川の水の都の美しさ、親切で穏やかな国民性、そして一方、若いビジネスマンがスマートフォン片手に闊歩する、金融・商業の中心地としての活気。
経由地だけではもったいない!皆さんには2泊することを是非おすすめしますが、ここでは、私のたった14時間のチューリヒの楽しみ方をお伝えしたいと思います。

ノルマンディー・ブルターニュの旅2008③オンフルール...

2010/08/29 02:08:44

オンフルールの旧ドック 2008.10.10

旅行写真紀行  Travel Photo Essay
2008ノルマンディー・ブルターニュの旅③オンフルール
──────────────────────────
私が写真を撮る際に最も大切にしているのは、被写体そのものよりも、そこに反射する光が作り出す輝きと陰影です。それが私が画家クロード・モネを好きな大きな理由です。
光の画家モネ(定説のようです)の「ルーアン大聖堂」連作や「積みわら」シリーズ、新国立美術館で公開中(8月16日まで)の「日傘を持った女」(2枚セットの1枚)、などが特にその光をモチーフにした作品と言われています。
私の今回のシリーズでもルーアン大聖堂、エトルタの崖、オンフルールのドック、モンサンミッシェルの朝夕などの撮影で光の捉え方に意を注ぎました。
旅行記を読み、写真をご覧いただくときに思い出していただければ嬉しく思います。
また旅先の雰囲気(臨場感)を出すため、できるだけ人物を写し込むことに心がけました。
─────────────────────────────
2008年10月7~16日(ノルマンディー、ブルターニュ、パリ)
今回の旅行は印象派を代表する画家クロード・モネが幼少時代から43歳で睡蓮の池で有名なジヴェルニーの家に移るまで主に活動したル・アーヴルおよびオンフルール、エトルタなど周辺の町を中心としたノルマンディー地方と世界遺産モンサンミッシェルが有名なブルターニュ地方を訪れました。(①~⑥を予定しています)

2008年10月10日(金)
ルアーブルからオンフルール行きのバスは午後までないので、仕方なくタクシーに乗った。
セーヌ川の河口に架かるノルマンディー橋経由で30分もかからないのに、往復の橋の通行料を含めて53ユーロもとられた。
この橋は午後遊覧船で下から見上げた。
オンフルールのホテルは昔の宿駅舎(宿場宿)を改造したというDiligence Hotelで庭に面した入り口側にしか窓がない。金網入りでもないガラス1枚で隔てているとは少し気味悪い。
でもバスタブがあるのにはほっとする。
昼近くになってターナー、コロー、モネ、クールベなど多くの画家が題材にしたという旧ドック、今はヨットハーバーになっている港の中心部へ向かった。
ホテルからは5分もかからない。帆をたたんだ白いヨットが多数係留されているが、天気がよすぎてこの時間帯では風情がない。

街中の狭い石畳の小道を進むとGalleryがやたらと多い。なぜかよくわからないが、むかし多くの画家たちがこの地で活躍したことに関係あるのかもしれない。ステンドグラスの看板など面白い写真がいくつも撮れてよかった。

ドッグ西通りに面したレストランの陽の当たるテラス席で昼食。ムール貝と白ワイン。16cmほどの深鍋いっぱいのムール貝には驚くばかり。小粒だが味は絶品で50個食べて残りを数えたら22個、全部で72個もあった。
遊覧船の予定がなければワインをお替わりし、完食間違いなしでした。

14:30発のノルマンディー橋遊覧船に乗った。
(8ユーロ)港からセーヌ川へ出るところに水門があり、世界屈指の(14mにも及ぶ)潮位の差を調節している。
橋は2本支柱のハープ橋で、橋桁は細くスマートに見える。橋の下をくぐってUターンする遊覧船は年配の観光客で満員で、秋の日差しを浴びながら1時間の舟遊びを楽しんだ。
水門の開閉で生じる激流に驚く魚を目当てにかもめが寄ってきて、狙いを定めては水中にダイブするのが面白い。

船を下りた頃には太陽も西にまわり、ドッグ沿いの建物からも直射日光が消え、白いヨットが引き立つような良い雰囲気に変わっていた。陽射しを避けた椅子を探してミルクティー(テオレ)で一休みした。

ホテルに戻って明日のモンサンミッシェル行きのタクシーの手配の相談をした。フロントの青年はタクシーは高いのでと、列車の時刻をSNCF(フランス国鉄)のサイトでいろいろ調べてくれたが都合のよいのがないので、結局60Km先のカーンまでタクシーを使うことにして料金(140ユーロ)を聞いて予約した。

頃を見計らってドックの夜景を撮りに出かけた。昼間とはまったく違うひっそりとした通りの建物の光が水面に長い光跡を映し、ヨットも静かに眠っているようだ。昼食と同じ通りのレストランですずきのグリルと白ワインの夕食。(25ユーロ)9時半ごろホテルへ戻った。

撮影 CANON EOS40D EF-S 17・85IS USM

編集・公開 2010.8.26

2006秋、中国旅行記9(3):6月23日(1)雲南省・シャ...

2010/08/28 09:08:49

<2006年6月23日(金)> 

 この日のメモです。「モーニングコール5:00、バッゲージ5:20、ホテル出発5:30」でした。予め、徐さんから貰っていた旅行計画書通りでした。AU携帯の目覚まし4時30分にセットして、早めに行動しました。
 2000m弱の高地で、軽く体慣らしをして、いよいよ今日から、3500mクラスの高地旅行の始まりです。

<弁当を持って、早朝の出発>
 まだ外が暗いうちからの出発ですから、当然、ホテルのレストランは開いていません。それで、弁当を手にしての出発でした。
全員、時間前に集合して、予定通りの出発となりました。ここで話題になった1つが、昨晩の騒音のことでした。原因が分かりませんでしたから、私は諦めて眠ってしまいましたが、大分苦労された方もいたようです。今朝が早い出発予定でしたから、夜出かけた人たちも早めにホテルへ戻られたようでした。
 国内線ですから、ウィスキーの機内持ち込みは駄目です。それで、私のリュックも預け荷物にして、5時20分の荷物出しの時に、皆さんと一緒に廊下に出しておきました。鍵をかけていないので、少し心配な点もありました。
 6時前に昆明空港へ到着しましたが、7時10分のフライトの1時間前である6時10分には、十分な余裕がありました。チェックインの手続きが済んだ後、待合室で朝食を摂りました。2種類のサンドイッチ、バナナ、ゆで卵とミネラルウォーターが箱に入っていました。

<香格里拉の空港到着>
 メモには、「8:05分シャングリラ到着」とありました。当初の予定が8時10分でしたから、極めて順調でした。約1時間のフライトです。
 昆明を飛び立った時は、薄い雲でしたが、シャングリラの中甸空港が近づくと、次第に雲の層が厚くなってきました。
 高度を下げて、雲の層を潜ると、山の前方にシャングリラの空港が見えてきました。その空港は、離発着が難しいのように思えましたが、
「雲南省のパイロットは、全員空軍パイロット経験者ですから心配ありません」
 との現地ガイドさんの話もお聞きしました。降り立った中甸空港は、幸い雨は降っていませんでした。現地ガイドの松さんがチベット族の民族衣装を羽織って出迎えに来てくれました。親切で元気のいい、明るい方でした。後でお聞きした皆さんの評判は、揃って上々でした。
 この中甸空港は、完全なローカル空港ですから、タラップを降りた後は歩いて到着ロビーに向かいました。通行を規制する人も見えず、出入りが自由でしたから、到着した機体を撮影に、もう一度、外に出ることが出来ました。
 その途中にある、空港事務所の扉が開いていました。6月下旬でも、何と電気ストーブが点けてありました。まだ、結構冷え込むのでしょう。

<雨のナパハイ見学>
 早朝に昆明を出発しましたから、シャングリラ到着は、早い時間でした。当然のことですが、投宿のホテルは準備が出来ていませんので、チェックインの前に見学です。
 その最初の見学地が、ナパハイでした。雨季の後には湖となり、10月から3月頃は干上がって草原となります。ナパハイ見学の時には小雨が降りしきっていましたから、乗馬による散策は自粛しました。雨に濡れて、風邪を引いた場合に、高山病との合併症が懸念されたからです。昨日、2000m弱の高地で、1日だけ体慣らしをしただけですから、無理は禁物です。
 ナパハイは、シャングリラの中心部から、北へ10km程に位置しています。鶴が飛来する自然保護区としても有名です。放牧された牛や馬が、黒い芥子粒のように点在して、草を食んでいる風景は、実に雄大でした。地平線の向こうには、雲に隠された高い山が控えているようでした。
 近くにいた馬は、競走馬のようなスマートな肢体ではなく、小型で足も少し短い体躯でした。日本の在来種として紹介されている木曽馬ほどにはずんぐりといていませんが、かなり近い血統のようにも思えました。

<暴動発生の情報、チベット族民家訪問>
 2つ目の見学地は、チベット族の民家訪問でした。実は見学予定地の松賛林寺界隈で暴動が発生し、治安回復がされていなかったため、急遽変更になりました。地方政府からは、この地域への立ち入りを自粛するようなメッセージが出されていました。
 代わりに見学したチベット族の民家は、この地域では裕福な方の屋敷のようでした。屋敷を囲む立派な塀があり、門を潜って2階に上がりました。立派な木材には、飾りの彫刻が施してあり、中央の柱は直径が1mを越すような、二抱えもある丸い大木が使ってありました。
 2階で一番目を惹いたのは、立派な祭壇でした。壁の1面を使った立派なもので、中央に小さな仏像やパンチェン・ラマ(?)の写真、右に毛沢東の胸像、左手に家族の写真が飾ってあり、それぞれにお供え物がありました。薪を燃やした暖房があり、ゆったりとした時間を過ごしました。

<ホテルへ、昼食>
 チベット族の民家の訪問を終えた後で、2日間泊まる龍鳳祥大酒店へ向かいました。昼食の時間になっていました。その昼食のメニューから説明しておきます。
 料理の写真の方は、何枚か写真編に収めておきました。味付けはさっぱりしていましたが、野菜、卵、肉などの素材自体の旨味が生かされて、十分に美味しい料理となっていました。山の中なのに、魚料理まで用意されていました。味から判断して、川魚が使ってあるようでした。
 この龍鳳祥大酒店の海抜は3450m程です。富士山に例えれば、丁度9合目辺りになります。ホテルの中では、出来るだけゆっくり歩いて高山病に備えました。

<雨の中の碧塔海見学>
 ホテルで少し休憩した後、午後の見学に出かけました。碧塔海(ピーターハイ)と呼ばれる、湿原のお花畑です。「シャワーは使わないほうがいいです」と教えられていましたので、軽く体を拭くだけにしておきました。酸素濃度が低いので、体温を急に上げたりしないほうがいいようです。
 ところで、碧塔海のお花畑散策は、今回の旅行で一番厳しいものとなりました。降り続く雨で体が冷え、ホテルへ戻った後で、体調を崩された方が出たためです。
 そんな厳しい碧塔海のお花畑の散策でしたが、天候のいい時であれば、全く違った印象になったかも知れません。入口から碧塔海まで約10kmに亘って湿地帯が続きます。今がそのお花畑の満開の時でした。シャングリラの中心部からは、25km程の東南部に位置しています。ナパハイと違って、いつも水を湛えている湖です。

<ホテルでの夕食、村長さんの家での観劇>
 ホテルでの夕食時にも、一寸した観劇がありました。小さな舞台で、民族衣装に身を包んだ人達の踊りでした。指が隠れてしまう長い袖の民族衣装等でした。この後、子豚の丸焼きのディナーショーが予約してありましたから、少し控えめの食事としておきました。
 本格的なディナーショーの始まりは、空にまだ明かりが残っている早い時間でした。雨が上がって、空には虹が架かって、印象的なシャングリラの景色として、脳裏に焼き付きました。
 ガイドの松さんの説明では、この村の村長、族長の血筋に当たる人で、出演者は、親戚の人達ということでした。予め予約してあった子豚の丸焼き、地元の強いお酒、酸っぱいチーズと、歌と踊りを楽しんで、この日のお開きとなりました。


  ナパハイで
 高原に草食む牛は遥なる地平に散らばる黒き芥子粒

  ピーターハイで
 湿原に雨季は来りて湖に伸る桟道花の中道

2006秋、中国旅行記10(5):9月23日(1)山西省・大...

2010/08/28 09:08:24

<2006年9月2日(土)>

 この日のメモからです。「5時30分目覚し、散歩、7時に朝食、8時にホテル出発」でした。今日のメインは、大同市郊外の雲岡石窟の見学です。地図で調べますと、内蒙古自治区に隣接し、万里の長城へも近いようです。中国3大石窟の1つ、世界文化遺産に指定された雲岡石窟見学に心躍る、朝の出発の時間でした。

<早朝の散歩>
 5時半の目覚ましは、いつも通りです。これより早く起きる必要がある時は、それに合わせ、それ以外は決まった時間です。その方が、リズムが崩れず、余裕を持って旅行が楽しめます。目覚しで不思議なことは、鳴る直前に目が覚めると言うことです。1、2分前は良くあり、今回は、起きようとAU携帯を手にとって、1、2秒前ということもありました。
 7時に朝食を摂るには、まだ時間がたっぷりありましたから、ホテル付近を散歩しました。部屋を出る前にカーテンを開けて、今日の天気を確認しましたが、上々でした。しかし、大同の町は雨が少なく、乾燥しきっていますから、遠くは霞んで見えました。多分、黄砂の影響でしょう。
 街路樹の周りは深く掘ってありました。場所によっては、30センチはありました。貴重な雨水をためるためではないかと推測されました。青々と茂った街路樹の周りは柵で囲われ、大切にされているようでした。

<雲岡石窟見学へ>
 予定通り、8時に車でホテルを出発しました。この旅行中、ずっとお世話になるマイクロバスと運転手さんです。昨日合流した、現地ガイドの王さんも、最終日までずっと案内してくれる手筈になっていました。その王さんが、昨日に続いて車の中で説明してくれた大同市のことです。
 「人口の99%は、漢民族です。後は、僅かにタタール人等が住んでいます。冬は寒いので、石炭を焚きます。その費用は、1日当たり1元程です。大阪から来た植樹ツアーのお世話もしました。特産品の石炭は、天津まで運び、そこからは船で日本へ輸出されています」
 などと言ったことでした。植樹はCO2排出量削減のための事業の一環でしょう。日本からは、オーストラリア等でも植樹事業に参加しています。道路の脇には、塀に囲まれた炭住街が続いていました。その炭住街が途切れたところで雲岡石窟に到着しました。

<雲岡石窟を造った北魏について>
 雲岡石窟の説明の前に、それを造った北魏について説明しておきます。主にフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」を参照しました。
 北魏(ほくぎ 386年~534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑拓跋部によって華北に成立した王朝です。国号は魏ですが、戦国時代の魏や三国時代の曹魏と区別して、北魏と称されています。後魏・元魏・代魏といった呼称もあります。
 大雑把に言えば、北の蒙古高原から万里の長城を越えて進入してきた遊牧騎馬民族が、今の大同を都に建てた王朝です。
 拓跋部は、261年に拓跋力微が曹魏に朝貢を行いました。このことが、のちに魏を国号に定めたいわれと言います。五胡十六国時代に代を建国しました。拓跋什翼■の時、前秦に滅ぼされました。
 什翼■の孫の拓跋珪(道武帝)は、前秦が■水で敗戦して弱体化したことを機に、代王を称して386年に自立しました。国号を魏と改め、398年に平城に遷都して、帝を称しました。
 その後、南下して後燕を滅ぼすと、それまでの部族制を解体し、貴族制にもとづく中国的王朝に改編していきました。
 北魏は華北の諸国を滅ぼし、三代太武帝の439年、華北を統一しました。これより中国は南北朝時代に入りました。このころ道士寇謙之が道教教団を確立し、漢人官僚の崔浩と結んで太武帝に進言し、廃仏が断行されました。これを三武一宗の廃仏と呼びます。
 六代孝文帝の時、馮太后の摂政のもと、儒教的礼制を採用し、均田制を施行し、三長制を確立しました。馮太后の死後、親政を開始した孝文帝は、さらに急激な漢化政策を進めました。493年、都を平城から洛陽に遷しました。漢化政策は鮮卑人の国粋的反発を呼び起こし、のちの六鎮の乱の伏線となりました。
 その後の北魏は、六鎮の乱を経て軍人の力が強くなり、高歓と宇文泰により別の皇帝が擁立され、東魏と西魏に分かれることとなります。これをもって150年ほど続いた北魏は滅びました。

<雲岡石窟について>
 本題です。次は雲岡石窟が造られた背景と、その特徴、推移などの説明です。
 雲岡石窟は、敦煌、龍門と並んで中国三大石窟に数えられ、2001年、世界文化遺産に登録されました。雲岡石窟は、五胡十六国時代の一部族北魏鮮卑族が中国北部を制圧したことにより、和平元年(460年)に開削が始まった石窟です。最も初期に造られたのは「曇曜五窟」です。鮮卑族の五代目までの皇帝の姿を模して造られたといいます。元は霊巌寺といい、現在では石仏寺などとも呼ばれます。
 曇曜(どんよう)は、雲岡石窟を造営するに当たって中心的な役割を果たした僧侶の名前です。途中、中国古来の道教を心棒する勢力が強くなったために仏教は廃仏の憂き目にあいました。その一時期、曇曜は都を追われていました。
 その後、仏教の勢力が持ち直すと、曇曜は都に帰って、雲岡石窟の造営に力を尽くしたとされます。最初、桑乾河の支流の武周川の断崖に開いた「曇曜五窟」(第16窟韓第20窟まで)は、三武一宗の廃仏の、太武帝の廃仏の後を受けた、仏教復興事業のシンボル的存在が、この五窟の巨大な石仏です。
 北魏の文成帝が先亡皇帝の追善のために、この五窟を開いたとされます。北魏の国力を傾倒したこの事業は、文成帝、献文帝、孝文帝の三代にわたって継続され、北魏の洛陽遷都(493年)までの間に、ほぼ完成しました。
 北魏は、文化の進んだ漢民族を支配するために、仏教を国の中心に据え、現在の敦煌の辺りから僧侶を招いて、雲岡石窟を造営しました。252の石窟に5万体以上の彫像が残り、インドからシルクロードを経て伝えられた仏教文化が、中国独自の様式へと発展していった過程がよく分かります。実に国費の8割を当てたとの記述も見掛けました。
 最初の五窟の後も、第1・2窟、第3窟、第5・6窟、第7・8窟、第9・10窟、第11・12・13窟と大規模な石窟の造営が続けられ、雲岡期(460年~494年)と呼ばれる中国仏教彫刻史上の一時代を形成しました。
 様式上は、最初期の「曇曜五窟」には、ガンダーラやグプタ朝の様式の影響が色濃いとされます。その後の石窟では、ギリシャ様式の唐草文様に代表される西方起源の意匠も凝らされていて、当時の建築様式を模した装飾も豊富に見られます。
 ガンダーラ仏の特徴は、くぼんでくっきりとした眼窩と、鼻筋の通った多少面長な顔です。ギリシャの影響が濃いものです。5世紀のグプタ朝様式は、最もインド的で、最も美しいと形容されます。伏目勝ちの顔に、深い瞑想的な雰囲気を保ち、柔軟でスマートな体躯に、流れるような衣文(えもん)が特徴とされます。
 しかし、洛陽へ遷都する494年以降の末期になりますと、初期の雄大な質感は姿を消し、華奢で、力強さの感じられない造形が増加する傾向が顕著となります。
 そして、この傾向の延長線上に、続く龍門期が待ち受けます。南下した北魏が、河南省洛陽を都として、龍門石窟を築きました。
 また、その影響関係で言えば、雲岡の様式は涼州(甘粛省)の石窟にその淵源を持つとも考えられます。雲岡の影響は、龍門・天龍山・南北の響堂山などの広範囲な石窟寺院に及んでいます。

<雲岡石窟見学>
 前置きは以上にして、雲岡石窟見学の印象を記しておきます。旅行の前にガイドブックを紐解き、この小冊子を纏める際に「仏像の知識百科(主婦と生活社)」なども参照しました。
 「仏像の知識百科」によりますと、雲岡の仏像は、北京、朝鮮半島の楽浪に至り、そこから慶州を経由するルートと、扶余を経由して海のルートで九州北部に伝わったと想定されていました。扶余のルートが陸路を通らなかったのは、他の勢力圏を避けたためでしょう。改めて慶州の石窟庵にある石像を思い起こしました。世界文化遺産に指定された素晴らしい釈迦如来坐像です。
 中国大陸から朝鮮半島を経由しない日本へのルートは、揚州辺りから九州北部へ伝わったと想定されています。中国本土でも、他国の勢力圏を避けるために、このルートが選ばれたようです。
 見学は後代に作られた木造建築がある一角から始まりました。現地ガイドの王さんは仏教知識に詳しく、丁寧に説明をされていましたが、先にカメラに収めたい仏像が多くありましたので、グループから離れて先を急ぎました。殊に「曇曜五窟」と呼ばれる、最初に作られた巨大仏像群です。一通り、撮り終えたところで、皆さんと合流しました。暫く離れていましたので、エンちゃんから所在確認の電話が入った時でした。
 グループに戻った後も、ガイドの王さんは、仏陀の縁起を記したレリーフなど、一つ一つ丁寧に解説をしていました。まだ入口からほとんど移動していませんでした。
 世界文化遺産に登録された雲岡石窟は、二つの試練を与えられたようです。一つは石窟の背後や天井から染み出してくる湧水です。岩盤に直接刻まれた仏像の保存状態は問題ありませんでしたが、粘土を貼り付けて、その上に刻まれた仏像は、大きな被害を受けていました。
 顔が殆んどなくなった仏様や、膝から下が崩れ落ちた坐像がかなり多くありました。至る所に小穴が開いていたのは、粘土を支えた杭が流された跡でした。
 もう一つの試練は、文化大革命の時の棄損です。この詳しい実態は知る由もありませんでしたが、国家プロジェクトとして、修復作業が継続されていました。その様は、パネルに展示されていました。その一角では、修復作業を見つめる故周恩来首相の写真なども眼にしました。
 雲岡石窟を見学して、世界文化遺産に登録されただけの価値を実感することが出来ました。北魏の時代の仏像は、朝鮮半島に素晴らしい仏像芸術を生み、その続きとして日本へも大きな影響を与えたことは疑いありません。シルクロードの証とその恵みを、ここでも垣間見た思いがしました。

<懸空寺>
 恒山18景の第一景に数えられる懸空寺は、恒山の入口の険しい金龍峡に位置しています。大同市内からは、東南へ70km程に位置しています。絶壁の中腹に、寺がへばりついている様は、まさに圧巻です。ただし、高所恐怖症、閉所恐怖症の方には、決してお勧めできません。
 この懸空寺は、今から約1400年前の北魏の時代に造られました。修行僧のために作られたお寺だと、現地ガイドさんにお聞きしました。明・清の時代からは、仏教・道教・儒教の始祖が、同じ一つの堂に仲良く祀られています。
 切り立った岩肌の中腹に、細く長い木で支えられた様を見ますと、果たして登っても大丈夫かと、思わず躊躇をします。しかし、この細い支柱は飾りのために後代に設置されたものだと、ガイドさんからお聞きして、まずは、ほっとしました。建物の強度は、岸壁に穴をあけて、横木を差し込んだ梁で保っているとの事でした。その上に寺社が建てられています。
 楼閣を結ぶ狭い通路を移動しますので、既に述べたように、高所恐怖症だけでなく、閉所恐怖症の人にはちょっとつらい場所となります。インターネットの情報の中に、タクシーの運転手さんが「在大同、最好玩的還是懸空寺(大同で一番面白いのはやっぱり懸空寺だよな)」と話されていたことが紹介されていましたが、このスリルを暗に教えていたのかも知れません。
 懸空寺の右下に、赤い文字で「壮観」の文字が見えます。その文字には「、」が余分に付いています。この後見学した華厳寺でもこの文字を見ましたが、李白が間違って揮毫した文字がそのまま記されたようです。
 彼は豪放磊落で非常な酒好きでした。本人曰く、常に酔っ払っているということで、玄宗の前に召された時も酔っ払っていて楊貴妃に対して暴言を吐いたため、官職をクビになったとも言われています。「、」が一つくらい多くても、彼にとっては、たいしたことではなかったかも知れません。
 ところで、懸空寺では、年代を経たのに、建物や装飾に使われた原色が良く保存されていました。この理由は、「日照時間が短いのと、崖が屋根代わりになって雨が当たり難い」のがその理由のようです。
 下から見上げますと断崖に虹がかかったように見え、谷を隔てて遠くから眺めると鳳凰のヒナに見えると言われています。

<応県木塔>
 懸空寺の見学はスリリングで、しかも見所十分でした。五台山へ向かう途中、もう1箇所の名刹見学に立ち寄りました。それが応県木塔です。
 応県木塔は、「世界で最も高くて、中国で最も古い木造の仏塔」として、今年の9月5日に落成950周年を迎えました。現地で間近に見て、「世界文化遺産クラス」と直感しました。
 現地ガイドの王さんに、北京の「天壇」との比較で、その事を訪ねましたら、「北京と違って、ここは田舎ですから、後回しになったかも知れません」との答えが戻ってきました。日本へ戻って調べた結果でも、世界遺産の候補として有力なことが記されていました。
 1056年に建てられた応県木塔は、高さ67.31メートルで、世界中の木造の塔の中で、最も高いと言う説があります。実際に目にしますと、2階部分までは、石造りですから、この部分は、純粋な木造建築との比較で、評価が分かれてしまうかも知れません。中国最古の木造建築である事は、疑いがありません。2階部分が裳階に見えますから、現地では五重の塔かと思いましたが、八角九層が正しいようです。
 各階に仏像を安置し、1階には釈迦像を祀り、壁面に如来が描かれています。2階には釈迦、文殊、普賢の三尊仏を祀り、3階には四方仏塑像、5階には釈迦坐像と八方にそれぞれ八大菩薩を安置しています。2階以上(実質3階)、立ち入り禁止にされています。
 現地ガイドの王さんが日本の建築学会のメンバーを案内された時に、この建物の損壊部分を指摘されたようです。残念ながら、それを修復する技術が、中国には伝承されていないようです。
 現存する世界最高レベルの木造建築物、応県木塔が自身の重さに耐えかね、木組の損傷により、倒壊の危機に曝されていることが、2002年時点のインターネット情報にも書き込まれていました。
 現地調査を行った中国の専門家は、緊急保護措置をとるよう呼びかけていますが、未だその有効策が見出されていないとされます。塔の重さが約5300トンの東洋の斜塔は、その倒壊の危機を迎えつつあるようです。
 写真撮影は、一応禁止されているようでした。しかし、フラッシュを焚かない場合、注意されませんでした。椅子に腰掛けた監視の若い係員の方と目を合わせましたが、何も表情が変わりませんでした。
 登った2階に安置してあったのは、解説どおり、釈迦坐像を中心に、左右に文殊菩薩と普賢菩薩が配されていました。彩色も鮮やかに残っていて、これらの収蔵品も、応県木塔が世界文化遺産の候補になっている、大切な要素と見受けました。

<山道を五台山へ>
 応県木塔の見学を終った後は、ひたすら五大山への山道を走りました。私の印象は、一言で「石炭街道」でした。行き交う車は、全て石炭を運ぶトレーラーでした。往きは坂道を喘ぎながら登り、軽くなった帰りは、軽快に坂道を下っているようでした。
 バスの運転手さんは、見通しが利く場所へ来ると、警笛を鳴らしては、上りのトレーラーを追い越していきました。ガイドさんの話ですと、少しでも利益を上げようと、過載のトレーラーが多いようです。中には、それが原因でシャフトが折れて、動かなくなったりするようです。途中、崖に落ちたまま、放置されたトレーラーも見かけました。
 やや日が傾いてきた山道で目にする光景は、原野と言った印象がありました。雨が少なく、耕作には適していないことが読み取れました。耕作されている畑は、ほんの僅かでした。
 途中、1箇所で休憩を取りました。インフラ整備が遅れた、ガソリンスタンド兼備の休憩所でした。五台山が近づく頃には、辺りは夕闇に包まれました。検問所で入山料を払いましたが、全員バスを降りて人数確認がありました。外は、かなりの冷え込みになっていました。


  雲岡石窟で
 石仏を見上げて暫し佇めば木霊聴こゆる小さき鑿の音

 合掌の御仏の前吾も亦合掌してはシャッター押せり

  懸空寺で
 断崖を恐る恐ると足運び往くも戻るも狭き桟道

 千年を険しき寺に過ごせしも笑みの絶えなん仏像のあり

  応県木塔で
 木塔は少し傾き青空に水煙伸ばし今日も立ち居り

 ユネスコの登録近し木の斜塔永らえ給へ次の千年

Powered by 旅行のクチコミサイト フォートラベル